幕張本郷の不動産社長経験178)不動産売買の面白さ、難しさ(コロナ災禍現況⑫)
令和2年のお盆
今年は青森の実家長男の初盆なので法事に帰ろうと計画しておりましたが、関東地区はコロナの感染進んでいるので中止となりなした。残念でしたが県外の外出自粛する事にしました。
上の写真右端は私が小学校に上がる前の小さい時からお小遣いをせびっていた「名前が金太郎祖父」です。良く祖父にはお金をせびるに行くと「お前は鹿か?」と言われたのを覚えています➡天理教の信者でもあった祖父は奈良県の天理市本部に行った時に公園に寄ったら「ジュエン、ジュエンと鹿が泣いていた」事を覚えていて祖父に「10円くれ10円くれと迫ると」お前は鹿と同じだとよく言われたのを懐かしく思い出します。
私が小学校2年生の時に70才で死亡(明け方近くにお袋に起こされて祖父の部屋に行ってじいちゃん!じいちゃん!と呼んだのを思い出します、注射が嫌いで医者が来てもなかなか注射をさせませんでした、明治生まれの頑固で厳しい祖父でしたが懐かしく思い出します)。
仏様へのお供え
青森の実家では先祖の霊(仏様)を迎える準備として13日夜(迎え盆)には旬の果物などやお菓子、お花、の他にお膳に「ご飯とお汁、野菜のおかず、果物等を」をお供えします。14日~15日には実家から巣立って行った子供達や親戚、分家の人達が本家に線香上げに来ます、又お供え物も持参しますので花瓶の両側はお供え物で一杯になります。
写真は令和元年8月13日夕方実家に帰った時の写真です。千葉に帰る時は大きい紙袋2個に一杯お土産を貰って帰ってきました、重かったのですが田舎の香りが一杯詰まったお土産は女房にも喜ばれますので幕張駅迄迎えに来てくれます。
墓参り松明し
青森の実家では(周辺部落も同じです)14日と15日は朝実家で作った料理と果物、お菓子、お供えの花を持ってお墓に行きお墓の前に1m位の台にこもを敷その上に料理を並べて、線香に火をつけてお参りした後には親戚縁者のお墓にも線香を上げて歩き一回りして戻ってから、料理を食べてから実家に戻ります。それぞれの家にはお盆で帰って来た人達がお墓参りをしながら同じ部落の人たちと会う機会でもあります。
夕方はお墓の前で松明しをそれぞれの家でやります、小さい頃は夕方の暗くなりかけてからお墓に行きました(先祖の霊が夜迷わないで帰って来る様に焚火を燃やすのだ、との言い伝えです)。近年は早い人は午後3時過ぎには松明しに行く人もいます(未だ太陽がカンカン照りの中)、だんだん儀礼的に成って来た雰囲気を感じております。私は今でも実家に帰ったら夕方行くようにしています、雰囲気も違いますし「先祖の霊の迎え火」だとの考えが有るからです(古い考え方の人間ですが変えるつもりは有りません、死ぬまで)。
下の写真は弟(4男)です、昨年実家に帰った時に2人で松明しに行きました(次男の兄は1昨年脳梗塞で死亡、長男は癌で入院中でしたので元気な男は弟と2人だけになっていました)、暗くなる前の少し前の写真です。上の写真は親戚のお墓を廻って本家の墓に戻って来た時の暗くなっていた写真です。
実家のお墓松明し、暗くなる少し前の写真です。青森の実家は江戸時代から続いている農家です。初代が無くなった年は墓標に刻まれていませんので不明の様です、これはお寺が火事になり過去帳が消失してしまったからだそうです。
祖父は明治19年生まれ、昭和31年老衰で70才で死亡(自宅で明け方でした)。
父(大正10年生まれ、平成13年10月20日80歳で老衰による死亡)は生前短歌を詠んでいました、東北日報や地元新聞に応募して色々な賞を頂いていました。
墓石にも短歌が彫って有ります【黄金に 輝く稲田 亡き父母の 労苦の末の たまものなるも】先祖代々の祖父母達の苦労を見てきた、自分達も苦労の連続だったと思える父だから詠めた一句で私も大好きな短歌です。
次兄のお墓
次兄は分家してからは初代でしたので「墓石は原家」になっています、先祖代々は入れられません。働き者で中学を卒業すると朝から午後3時頃まで実家の農家を手伝い、定時制高校に4年間通い卒業しました、卒業後は八戸の水産加工販売問屋に勤務して定年まで勤めました。実家に帰ると次兄が死ぬまで「山盛りの刺身を大皿で何皿も持ってきてどんどん腹一杯食べろ」と兄弟や実家に来た親戚にふるまっていました。60歳の定年でスパっと退職して又実家の手伝いをして長男夫婦を助けました。「70才の若さで脳梗塞になりすぐ病院に行きCTを撮り、意識は未だはっきりしていたみたいですが、手術担当医が動脈の血の塊を突っついて動脈を破ってしまったので血管から出た血が脳にどんどん溜まって頭がパンパンに膨れ上がっていました、連絡がありすぐ千葉から八戸の病院に駆けつけて次兄に声をかけて手を握ったら40度以上あるのではないかと思われるほど熱が有りましたが、看護師は何もやる気配が無さそうなので、なぜ氷枕で全身の熱を下げようとしないのか?と訊ねると「熱が上がり切ってからでないと効き目がない?」と訳の分からない説明をしておりました。「この時点でもう助からないと医者や看護師は見ていたのでしょう」。そこで兄弟全員と会った後に私も死に目には会えましたが完全看護なので全員家に帰ってください、何かあれば連絡しますからと言われました。「私はこれは危ない今夜持たないかもしれない」と思ったので次兄の奥さんか息子に残った方が良いと言って奥さんを残して実家に帰りました。お茶を飲んでいたらすぐ電話が来て先程死亡しましたと言われ又病院に行き、次兄の家に兄を連れて来ました。
医療ミスの可能性大でしたが、奥さんや息子がその気がなさそうだったので私は言うのを辞めました。本当に悔しい、生きられた可能性が大だったのにと思うとやりきれない思いが今でも蘇ります。
お疲れさまでした、安らかに眠って下さい、両親や長男と共に原家から出た人たちを見守って居て下さいと祈るばかりです、「合掌」。
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