幕張本郷の不動産社長経験228)不動産売買の面白さ、難しさ【令和3年1月11日、72才誕生日です】】
今日「1月11日で72才になりました」
早いものでこの前還暦のお祝いをやったと思っていたら、又干支が一回りして72才になってしまいました。
「光陰矢の如し」です、やり残している仕事や物の整理と処理を一つ一つ片付けて行く年にする予定です。
丑年生まれですのでスローな部分と猛牛な部分を持ち合わせていますので、バランスよく仕事とプライベートで使え分けられれば良いと思っています。
一向に収まらないコロナ禍に感染しないように!日々の行動を注意しながら健康な1年が過ごせるようにしたいと思っております。
「不動産業、建設業の仕事40周年」になりました
不動産業の仲介、建売、注文住宅の仕事に初めて社員として入社したのは40年前の春からでした。東京都杉並区、JR高円寺駅南口徒歩2分の処に(株)協栄建設が有りました(現在は高円寺駅の北口に移転してます)。千葉からの通勤は1時間半位はかかりますので高野社長から「通勤大丈夫か?」と言われましたが、大丈夫です!と答えて採用して頂きました。
入社の前年「宅建士」の資格は取ってましたが、ペーパードライバーのようなもので実践は全くゼロですから最初は先輩の運転手から始まりました。
「道路も分からない、物件も分からない、接客もしたことが無い、全て分からない状況からのスタートでしたので」言われたことをやり、道路を覚える(幹線道路、裏道、一方通行、時間帯による車線の込み具合等)、社有、及び仲介物件の場所を覚える(1000万円台~4000万円台迄の新築、中古、土地)、案内の仕方(順序)を覚える事が、反響のお客様を直接案内する最低限の条件でした。
営業エリアは杉並区、中野区、新宿区、世田谷区、渋谷区、目黒区、が主でした。豊島区や品川区、港区も物件により扱いました。
線路の沿線は、総武中央線、西武新宿線、京王線、京王井の頭線、小田急線、東急東横線、山手線、各地下鉄線、等覚えなければならない事が山程有り、これはやっていけるかな?と少し不安にもなりましたが、「高野社長に大丈夫です」と言ってしまった手前、又途中で投げ出すのは私の「ネバーギブアップ」の精神に反するので「絶対やってやるぞ」と闘志を燃やす事にもなりました。
不動産営業社員の最初に使った住宅地図
(株)協栄建設に入社してすぐ先輩から言われた住宅地図を本屋さんで買ってコピーをしました。先輩営業の運転手をして通ったところの道路と物件を帰社後に書き込みながら道路と物件を頭に叩き込んでいきました、しかしどんどん売却になっていくので常に新しい物件を見て頭に入れておかないと案内の時に応用が利きません。
地図には常に新しい物件を書き込みながら、書き込む余白が無くなったら又地図の原本をコピーして新たな物件だけを書き込むことの繰り返しをしてました。段々と道路や物件が頭にスーと入るようになって来た入社から1ヶ月半位の時、中野区の公園脇に当社が仕入れた古家付きの土地が有りそこに新入社員の私ともう一人の新人の2人で現地待機する事に成りました(物件周辺だけチラシ配布してました)。
現地は古家が有るだけで一般の人が見てもどの位の建物が建つかピンとこない状況でしたので新人でも現地待機させて、名前や連絡先でも取れればOKと会社は思っていました。何組か現地に来て未だ何にもしていない状況を確認すると殆どの人はそのまま素通りしていきました。
午後に父親と息子が自転車で現地に来ました、素通りしそうになりましたが父親の方が半地下車庫で上に2階建ては建てられますか?と聞いて来ました。「建てられます、こんな感じですか?とその場で私が簡単なラフパースを書いて見せましたら」「そうそうそんな感じです」と云うので、「この後時間有りますか?」「有ります」と云うので自転車でも15分も有れば会社に行けますのでと会社に来社して頂く。
近くの公衆電話でこれからお客様が会社に行くので、建築会社の社長を呼んでおいて下さいと担当課長に依頼して私も会社に向かいました。会社で担当課長と接客している間に建築会社社長も到着して、お客様が希望する建物が建つことを説明、確認してその場で申し込みを頂きました➡高校卒業後、鉄骨加工製造専門の建築会社10年間勤務時に2級建築士を取っており、試験の時は木造の2階建ての配置図、1階、2階の平面図、立面図、矩計図を書いていたのでここで役に立ちました➡入社して最初の契約が利益率の高い社有物件の注文住宅でしたのでラッキーでした、当てにしていなかった新人が社有物件契約と成ったので高野社長は目を丸くして喜んでいました(反対に先輩社員達からはエライひがまれましたが、、)。
当時は朝9時から夜は9時~10時迄の仕事でした、往復約3時間の通勤時間も有るので年中寝不足でした。「石の上にも3年」と3年間頑張りました。最後は課長職になっていましたが帰る時間が部下のホローやチラシ造りなどの仕事も増えて更に遅くなり、身体的に限界に来ていましたので社長に状況話して了解得得て円満退職する事が出来ました。3年間良くがんばったな!云って新宿の料理屋で社員一同と送別会を開いてくれました。
今でも東京方面に行き時間が有る時は高円寺に顔見に行く事も有ります、高野社長も昨年も会えに行きましたが元気で仕事しておりました(このまま終わるのは納得いかない!ので納得する仕事してから引退するつもりの様です)。
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