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2020年09月07日
ブログ

幕張本郷の不動産社長経験180)不動産売買の面白さ、難しさ(青森での中時代)

中学1年の時

中学1年生になると私たちが卒業した「上市川小学校」と隣接地区の「切谷内小学校」が合同になりました、4クラスで180~190名くらいだったと思います。私はA組で人数は48名位でした。最初は各先生が「顔と名前を一致させる為に」名前を呼んで1人ずつ立たせて確認していましたが、Aクラスはなぜか原姓18名位いたと思います。原〇〇、原△△、原□□、原XX、原ZZ、、、と18名も続けて呼でいると「まったくハラハラする」大概の先生は言っていたことを思い出します。みんな違う地区から合流した人たちを混ぜ合わせてから4クラスに人数配置したと思われます。1学期目はあまりなじめない人も2学期目位から徐々に慣れて来て色々話せる様になっていったような気がしています。

授業中は別に悪さをするでもなく真面目に授業を受けていました、勉強は相変わらず授業以外はしませんでした。

上の写真は実家の近く(30分位の距離)の友達のリンゴ畑の上から竹スキーで下りてくるところです。当時はスキー板を買ってくれと云いたくなかったので、自宅内に生えている竹を小刀で切り出して背丈位でカットする。8番線の針金を真っ赤に焼いて竹の真ん中に通す、最先端と最後尾の他に5~6か所針金が通る穴をあけて竹5本を並行に平らにして針金で締め付ける、これが結構難しい作業ですが手を抜くと滑りが良くないので気を使います。最後に先端から20㎝位の所を5本まとめて焚火で炙り程良い処で曲げてすぐ雪で冷やして固めます、そして竹スキー2本の先端に縄綱を結びつけて完成です(ストック替わりに方向転換する時に縄綱を左右に引き方向転換をします)。

1番下の写真は左手人差し指の傷跡ですが、スキー板を竹で作るために人差し指大太さの竹を小刀で切断する時に雪が積もっていたので根元まで雪をかき分けてから切れば良かったものを、手を抜いて雪をかき分けずに足で雪を踏みつけて左手で竹をもって弓状に曲げて斜めにカッターで切ったものだから反動で切った竹の反対側の切り端が飛び出して左手人差し指に食い込んで骨まで切り込んで弾ける!電気が走ったような痛みと大量の血がぼとぼとと足元の雪を真っ赤に染めました。恐る恐る傷口を開いてみると白い骨が見いていました!手拭いでぐるぐる巻きにしてようやく血を止めて少し休んでから家に戻った事を思い出しています。医者に行かずに絆創膏を張って治したような気がしています。   

中学2世の時

実家は農家でしたので田畑を耕すのが大変でした。私が小学校3~4年生位迄は農耕馬で田や畑を馬用の農機具で耕していました、小学校5~6年生くらいになったら耕耘機を入れずにいきなりトラクターを父が購入して田畑を耕していました。

学校から帰ったら家の前にトラクターが有ったので乗り込んで撮った写真です。

相変わらず田畑の仕事は殆ど手伝いませんでしたが、両親と兄2人も手伝えと云わずに好きな様にさせてくれました(本家に残ったり分家に成る人ではない!と祖父が生きていた時の小さい頃から言われていたので)。

2年の2学期位から何となく中学校を出たらすぐ大工になって棟梁になろうとぼんやり考えていました。学校以外での勉強は相変わらずしませんでしたが3学期に入ると父親から高校位は出ていた方が良いのではないか?と言われ「大工に成るつもり」と云ったら大工は高校出てからでも遅くはないから高校は行くようにと言われましたので「分かった」と返事しておきました。

中学3年の時

3年生になると進学組と就職組が各2クラスに編成されました。私は父との約束も有るので進学組に編入されました。

修学旅行は4~5月頃だったように記憶していますが記憶が定かではありません「日光東照宮周辺や中禅寺湖、華厳の滝、戦場ヶ原➡鎌倉大仏➡横浜山下公園(中華街?)➡羽田空港➡東京都内、国会議事堂、上野公園(西郷隆盛像)、上野美術館、等を回る」2泊3日位だと思っています。

クラブはサッカー部に所属していました、入部人数は8~10人位で練習は5~8人くらい集まれば良い方でした。春先に「強豪校の五戸高校」と練習試合やりましたが人数が足りないので陸上部から不足人数を借りて試合しました➡結果は15対0で完敗でした。私たちは普段もあまり走り込みもせず大した練習もしていないので当然でしたが、5㌔の道を走って来て試合をしてコテンパーに相手をやっつけて帰りに又5㌔の道を走って帰って行きました➡余りのレベルの違いにハンマーで頭を殴られたような衝撃を覚えた事を思い出すます。

1学期の中間試験の結果は進学組は1番からビリ迄廊下に張り出されました。それは良いのですが自宅にも各学科の点数と全体の順番が届いていました。図工と音楽が20数点でした、親父にここに来るようにと言われて目の前に行き座りました。「目の前に試験の報告書を出して、この試験の成績で高校行けるのか?と一言だけ言われました」「大丈夫!まだ時間が有るし絶対大丈夫だ」「そうか!それなら良い,とだけ言って]もう良い夕食食べろと言われました。それ以外には親父は合格する迄1回も勉強しろとか色々口にすることは一切有りませんでした。

その夜は初めて興奮して眠れませんでした!翌日目が覚めたら「やってやる!見ていろよ!と闘志が湧いてくるのが分かりました」。学校から帰り南側端の3畳間の物入部屋の荷物を全部大部屋に出して片付けました、そこに畳2枚敷上に布団を敷き、机を入れました(3帖の部屋ですので引き戸を開けると半間の板の間が有るだけでしたが私には十分でした)6月後半から翌年の2月後半まで8カ月間は学校から帰ると自宅で毎日5~8時間人が変わったように勉強に励みました。3~4カ月目からは進学組で3~5番目が定位置となり成績は一気に上がりました、しかし小学校の頃から学校から帰っても勉強を続けてきている2人には最後まで追いつけませんでした。総合力と積み重ねの重みを痛い程思い知らされました。この事も現在の仕事に於いて間接的にでも役立っているように思います。

高校は「私立の電波高校」と「県立の八戸工業高校」「高専工業高校」の3校受けました、高専は滑りましたが2校は合格でしたので八戸工業高校機械科に入学する事にしました(当時八戸には建築科は有りませんでした、弘前か青森にしか有りませんでしたので自宅から通える八戸工業高校の機械科を選びました)。

 

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