令和元年青森実家の墓参り
今年は13日から16日迄お盆休みを取りました、午前9時30分から八千代市の義兄の墓参りをして昼頃自宅に帰り、1時に自宅出て午後2時20分東京駅出発し八戸駅5時04分着、弟が駅迄迎えに来てくれました。日赤病院に立ち寄り実家に帰る、義姉が用意してくれた料理をつまみに飲食してその日は就寝。
14日、15日朝は五戸町実家周辺は墓参り
朝5時半頃タオルケットを寝ながら蹴っていたので寒くて目が覚める、7時頃から墓参りに行くと義姉から聞いていたのでもう一寝入りしようかと思ったが外は明るかったので、起きて庭木の剪定をすることにする。1時間15分位剪定作業をやりシャワーを浴びてお墓参りに行く、五戸町の実家周辺は14日と15日の2日間は朝はお墓に供える料理をそれぞれの家で作り料理の他にお菓子や果物、お花を備え先祖の供養をします。線香は実家の墓の他に一族(本家、分家)や付き合いのある家の墓のも線香をあげて廻ります、そうすると普段会えない人にも会ったり、同級生や先輩後輩にも会ったりします。ひと通り線香上げて廻ってから実家の墓にお供えした料理は食べてから帰ります、どうしても残ったものは持ち帰り実家の家の中には持ち込まず捨てます、これが昔からの風習ですので出来るだけ全部食べるようにしています。(残しておくとカラスが来て食い散らかしので周りが迷惑するのも有ります)
14日、15日の夕方は墓の前で迎え火
14日と15日の夕方は各自の墓の前で焚火をして先祖の霊を迎えます。私たちの小さい頃は夕方薄暗くなってからお墓に行ったものでしたが、今の若い人は形式手に行けば良いと思う人と、年寄りは足元が不安だから?と明るい内に午後3時頃から行く人が増えたみたいです。私は薄暗くなってから兄弟と行くことにしています、古い人間なのでしょうか?何となく迎え火の意味が無いようで嫌なのです。
15日は迎え火の焚火時に朝お供えの時に使用した菰も一緒に燃やします、この時も線香を実家の墓を含む一族や知り合いの墓に上げます。50年以上前の夕方は墓所周辺は煙で一杯でしたが今は夕方来る人の方が少ないので私が行く頃は8割帰った後になります、それでも私が帰る時もまだ人はいますし薪をもって来る人もいます。
私の実家は江戸時代から続いている家系で初代の死亡年月日は不明ですが2代目は安政?年死亡(墓碑を良く見て来なかった)と記憶しています。
墓の数と人口は反比例
私が小さい頃から見ると墓の数はそれぞれの家からの分家で倍以上になっていますが、人口は実家周辺でも五戸町全体で見ても反比例で減っています、農家の後継ぎが不足している事と嫁さんに来る人が少ない(いない?)ので35~40歳過ぎても1人でいる人が多いとの事です。実家周辺の5年後、10年後が心配です、「日本全体の地方政策の基本的な考え、方向性を早急に考え、即手を打って行かないと大変な事態を迎える事になる事必至です」、国、地方、各自治体住人が真剣にどうするか考えて議論を重ねてより良い方向性が見いだせる事を祈るのみです。
庭師に変身?
14日は太陽も出ず少し寒い位の天気でしたので、墓から帰って来て一休みしてから庭師に変身して作業するには良い気候でした、これが例年のカンカン照りですと滝の様な汗をかきながらの作業になるので助かりました。作業前と作業後の写真を撮ってきましたので載せますが、見た人は何点位の点数付けてくれるでしょうか?
実家内畑の野菜とお花
実家の敷地は約1,000坪位有ります、住宅の母屋は建坪約95坪、米収納庫を兼ねた小屋は2棟、野菜(きゅうり)などの仕分けも出来る広い作業場も有ります。私が小さい頃は「鶏小屋、牛小屋、トイレ小屋、ひつじ、ヤギ小屋、風呂小屋、井戸小屋、ムシロ小屋、味噌小屋、防空壕小屋」大小合わせて13の建屋が有りましたが今は4棟減っています。
今年は自宅内畑には「きゅうり、とうもろこし、なす、トマト、ブロッコリー、すいか、メロン、さやえんどう、カボチャ、等」栽培していました。
きゅうり、カボチャ、花の写真のみ載せます。
祖父の思い出
祖父が死亡したのは私が小学校2年の時でした。父親は7人の子供を平等に扱いましたが、祖父は長男は跡取り、次男は長男に何かあった時の跡取り、3男の私は本家に残ると分家してやらなければならない事になり、本家の田、畑を分けてやらなければならなくなるので、本家から出す事を小さい時から徹底して植え付けられました(結果的に私は良かったのですが)、例①お小遣い長男100、次男50、三男20~30、例②お土産や冠婚葬祭時のお菓子類の分配も①とほぼ同じ、例③長男、次男にはお小遣いやっても普段は私にはくれない、10円貰うために鶏の好物エサの草を籠一杯に取って来ないと貰えない、例④お小遣い欲しい時は祖父に10円くれ、10円くれと何回も云って離れないと「お前は鹿か」と言って怒られました➡天理教信者だった祖父は奈良の本部に行った時に奈良公園の鹿がジュイン,ジュインと泣いていたのを思い出して、私をお前は鹿と同じだと言っていました。
*今考えると「本家の将来の事迄考えて、小さいうちから3男のお前は本家には残れない事を徹底して私の頭に浸み込ませておきたかった」のだと思います。「結果的にそれが現在の私を作り上げるに必要だったと思い感謝してますが」小さい時は無性に腹が立った事を思い出す事もあります。実家に帰って祖父の遺影を見ながら線香あげる時は又3番目(三男)が帰って来たよ、本家と本家から分家した人たち、又私の行く末も見守って居て下さいと「遺影の全員に」手を合わせてきました。
下の写真右から、祖父、祖父の妻、祖父の弟、父親、母親
16日八戸駅より新幹線で千葉へ
13日は午前中義兄の墓参り、午後は東京駅から新幹線で八戸に来て五戸の実家へ、14日は午前5時30分庭木の剪定➡午前7時朝の墓参り➡自宅➡午前9時庭木の剪定➡昼食➡庭木の剪定➡午後4時八戸、白銀台の高校同期生宅に線香あげ、飲食歓談➡午後6時30分お墓の迎え火(実家では「松明し」に行くと言っている)➡午後7時20分実家で兄弟、甥夫婦家族と夕食➡午後9時20分小学校の時から同級生宅に線香あげ、歓談➡午後11時過ぎ自宅に帰り就寝。
15日は朝7時墓参り甥家族も一緒に➡実家にて少し朝食(墓所で少し食べてきたので)➡午前中は庭の剪定残っている処やる➡昼食(冷やし中華)➡少し仮眠➡妹宅に線香あげに行き➡日赤病院長兄見舞い➡松明し(先発隊は甥家族が行き私と弟は第2弾で行く)➡実家にて兄弟たちで飲食、疲れたので今日は9時半頃先に就寝。
16日は少し離れた処の植木1本だけやっていないのが気になり朝早く目が覚めたので剪定作業する(半分害虫にやられていたので後で切ると言っていたが)、15日と16日は暑い日差しが戻って来ていたので少し作業すると汗が噴き出ました、シャワー浴びて朝食取り、義姉が作った赤飯を8パックとナス、きゅうり、お菓子と持ちきれないほどお土産を頂き、弟に八戸駅迄送って貰い10時16分発、東京午後1時10分着、幕張の自宅には2時30分着でした。ハードスケジュールでしたが自宅帰ってからはお土産をつまみにビール飲みながら高校野球観戦でお盆休みは終わりました。
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