幕張本郷の不動産社長経験179)不動産売買の面白さ、難しさ(青森での小学校時代)
小学校1~2年生の思い出
小学校1~2年の担任先生は遠藤先生【校長先生の奥さん】でした、勉強はしないで後ろの席から消しゴムを細かく切って前の人に投げつけたりするいたずら坊主でした。有る時前に投げた消しゴムか教壇の端まで転がって行きました、チラッと先生が見たので直ぐ止めましたが少し過ぎてから又投げようとして手を上げた処を先生に見られてしまい、教壇の処迄来る様に言われて行きました。「足を開きなさい➡歯を食いしばりなさい➡両足に力を入れなさい➡バシバシ、バシバシと往復ビンタを何回か食らいました」今なら暴力教師と言われますがあの当時(昭和30年頃は)は当たり前で誰も文句を言う人はいませんでした。家に帰って父にでも言ったら「お前が悪いから叩かれたのだ」と更に「おまけで父にも叩かれる」事に成りかねないので絶対言いませんでした。
ほっぺたを平手でしかも歯を食いしばらせてから叩くので「口の中が切れた事は有りません」、昔は先生も荒かったが怪我をさせない方法をしっかりと考えていました。
細身の先生でしたが怒ると鬼の様に怖い先生でした。
小学校3~4年生の思い出
小学校3~4年生の担任は西沢宏先生でした、弘前大学を卒業教員になって最初の学校、最初の担任でした。図工の先生でもあり私が心を開く最初の先生でした、小学校3年から6年生まで図工作品を三戸郡の展覧会に毎年出品して必ず特選から佳作迄の賞を頂きました、担任の4年生の時は汽車で三戸の展示場に入選者希望者を数人連れて行ってくれました。勉強出来る子とそうでない子を差別する事無く平等に接していた事と好きな図工の先生でも有ったので授業中はいたずらしなくなりました。家に帰ってからの勉強はしませんでしたが、授業中は真面目に話を聞いていたので以前より成績はぐんと上がりました。学級の多数決で学級委員に推薦されあまり気乗りはしませんでしたが先生の一言で請ける事にしました。「私の人生で前向きに考えたり、行動する基礎を作ってくれたのは西沢宏先生でした」。
学校終わると家に帰りカバンを置くと友達と野山をのびのびと駆け回る遊びの日々でした。農家の3男でしたが長男、次男は学校終わったら畑仕事とか田んぼの仕事を手伝っていましたが、私は実家にはいない人(学校終わったら他所へ行く人)と思っていたので「田植え、稲刈り、稲の野積、稲を自宅に運び脱穀する忙しい時以外は」好きに自由にしていても親から怒られませんでした。
社会人になっても年賀状を続けて出しておりましたが、3年前に返事が来なかったので体調でも悪いのかな?と思っていましたが2年前に八戸にいる息子さんから父は死亡しましたとはがきが届きました。八戸市で校長先生を歴任した後教育関係の仕事もしておりました。田舎の五戸町川内中学校の同期会にも10年位前に誘ったら快く出席して頂き歓談したのが良い思い出になっております。私の人生を前向きに指導して頂いた先生のご冥福を祈り合掌!
小学校5~6年生の思い出
5年生の時の担任は関口先生でした、気性が荒く短気な先生でした。6年生になってからか5年生の終わりごろかははっきりしませんが病気で入院して、体育の先生だった三浦先生に担任が変わりました。関口先生の時はあまり勉強も面白く無くなりました、授業中に先生が黒板に向かってこちらに背を向けている時に隣の旧友と話していたら、2人共前に来いと言われ教壇の上に正座させられて【教壇の前端から30㎝膝を出しての正座】1時間の授業終了ベルが鳴り、先生に席に戻って良いと言われ「立ち上がろうとするも膝に全体重がかかっていたので痛くて立てない」すると棒で黒板をバーンと叩き早く席に帰れ!と怒鳴られて飛び上がって起きて、よろけながら席に帰ったことも有りました。
6年生の時は修学旅行で「函館、大沼公園、五稜郭、トラピスト修道院、等道南地方を回った思い出が残っています。
3年~4年生の時が充実していたので就学旅行以外は5~6年生の時はあまり印象に残る事は無かったように思われます。
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